待てない手

子ども&保護者

春の終わりの小学校の校庭には、暑さに変わる前のやわらかい空気が、まだ少し残っていた。
白いラインの引かれたグラウンドを子どもたちが走るたび、細かい砂がふわりと浮く。
笛が鳴る。
遠くで歓声が上がる。

試合と試合のあいだ、子どもたちは空いたスペースでボールを蹴っていた。
笑い声がして、誰かが転んで、別の誰かが大げさに倒れた真似をする。
その後ろで、荷物だけが見事に散らかったままだった。

カエルの口みたいに開いたバッグから、タオルが舌みたいにはみ出している。
何本かの水筒が土の上に転がっている。
脱いだ上着は丸まったまま踏まれ、食べ終わったゼリーのゴミがテントの脚のそばに貼りついていた。

三年生なら、まだこんなものかもしれない。
それでも、保護者の足は少しだけ前に出る。
片づけてしまいたい足が、カエルを狙う蛇みたいに半歩だけにじる。

ひとりの母親の視線が、荷物に貼りついた。
自分の子どもの荷物だけが、襲われたあとみたいに散らかっていた。

見た、というより、見過ごせなかったのだと思う。

足が一歩、荷物のほうへ出かかった。

「おーい」

私が声をかけると、空いたスペースでボールを蹴っていた子どもたちが何人か振り向いた。
まだ自分のことだとは思っていない顔だった。

「荷物、えらいことなっとるやん」

二、三人が笑った。
その笑いも、すぐに止まった。

「サッカー選手の荷物って、こんな感じなんか?」

子どもたちがいっせいに後ろを振り返った。
それから、ぱらぱらとテントのほうへ走ってくる。

「やば」
「これ、誰の?」
「ちがう、俺じゃない」

しゃがんで、押し込んで、拾って、また落とす。
手は動いているのに、片づいていく感じはあまりしなかった。
とりあえず袋に入れる。
上着を丸める。
ゴミを拾ったと思ったら、別のゴミはそのまま残っている。
水筒は立てたつもりで、また寝転ぶ。

「よし、できた」

ひとりがそう言って立ち上がる。
まだ全然できていなかった。

「これ、きれいなんやろか」

私がそう言うと、何人かが黙って足元を見た。

「ううん」

小さい声が返ってきた。

「なら、もう少しやらんと」

それでも、ふいに手が止まる子がいた。
さっきまで慌てて動いていた指先が、袋の口をつかんだまま止まっている。
何をどうしたらいいのか分からず、荷物の前で目だけが泳ぐ。
拾ったゴミをどこに入れたらいいのか迷って、手に持ったまま立ち尽くす子もいた。

少し離れたところで、さっきの母親がその様子を見ていた。
口は閉じたままだった。
でも、今にも「違うでしょ」と言いそうな顔だった。

母親の頭の中では、もう片づけが終わっているのだと思う。
どの袋に何を入れるか、水筒をどこに立てるか、ゴミを誰が拾うか。
子どもより先に、手順だけがきれいに並んでいる。
だから余計に、待つのが難しい。

「自分の荷物、分かるようにしとかなこうなるで」

そう言うと、子どもたちはまたしゃがみこんだ。
さっきよりは少しだけましになった。
それでも、きれいとはまだ言えなかった。

試合前の空き時間、保護者が日陰に集まっているところで、私は少しだけ話をした。
さっきの荷物のことを、そのまま流したくなかった。

「自立って、大げさなことやなくて、自分のことを自分でやれるようにするだけやと思うんです」

「サッカーでも学校でも、結局そこが土台になります。最初からちゃんとできる子はおらん。ぐちゃぐちゃでも、一回自分でやることが大事なんですよね」

「でも、これが難しいんですよねえ。待てない」

私はわざと口を尖らせて、困ったみたいに肩をすくめた。
大げさなくらい困った顔をしてみせると、保護者のあいだに小さく笑いがこぼれた。
少しだけ、空気がやわらいだ。

「失敗せんように先回りしたほうが早いし、後が楽やしね。でも、それ続けたら自分でできるようにはならん。前に進んでるようで、その場で足踏みしてるだけになってしまう」

何人かが「うんうん」と頷いた。

「だから、この場所では親と子を少し切り離すようにしてるんです。できるまで待つ時間。何ができてへんか伝える時間。それが、自分でできるようになるための時間やと思ってます」

試合はすべて終わり、保護者たちはそれぞれ椅子を畳んだ。
子どもたちは疲れた顔をしながら、まだ遊び足りないみたいに少しだけボールを蹴っていた。

「今日はありがとうございました」

さっきの母親が頭を下げた。
その横で、息子も小さく頭を下げる。

「ありがとうございました」

母親はしゃがんで、テントの下の荷物をまとめ始めた。
水筒を拾う。
バッグの口を閉める。
上着を押し込む。
さっきまで土の上に散っていたものが、手際よく収まっていく。

息子が自分の荷物に手を伸ばしかけた。
けれど、その手が届くより先に、母親の手が先に出た。

ボールの入った袋を持つ。
バッグも肩にかける。
水筒までまとめて自分で持つ。

空いた手がひとつ残った。

母親は何も言わず、その手を取った。

「ほら、行くよ」

男の子は、素直についていった。

言葉で分かることと、手が離れることは、たぶん別なんだと思う。
子どもが自分でできるようになるのに時間がいるように、
親が手を出さずに待てるようになるにも、きっと時間がいる。
親子は手をつないだまま、車のほうへ歩いていった。