歪んだ公平

小説

笛が鳴った。泥を踏む音が止まり、息だけが白く立ち上る。
河川敷の朝は冷たい。風が声をグラウンドの端まで運ぶ。

「集合!」

新田は、いつも襟を正している人だった。ジャージにすら折り目があるように見える。声は低く、よく通る。腕時計を見て、眉ひとつ動かさなかった。動かさないだけで、もう怒ってるのが分かった。

健人は、息を切らして走り込んできた。
ユニフォームも、スパイクも、レガースも昨日の夜、準備した。
今朝もちゃんと起きた、出発の五分前には外に出た、でも母さんが遅れた。

「健人」

新田は、目だけで呼んだ。
健人は顔を上げた。まだ息が整っていない。背中に、みんなの視線が刺さる。

「何分遅れた」

「……五分です」

「今日は遅れていい日か?」

「いいえ」

新田は背筋を伸ばしたまま、健人を見下ろした。
怒鳴らない。声を荒げない。その代わり、正しいことを、順番に、丁寧に並べる。

「今日は公式戦や。チームで動く日や。時間を守る、当たり前ができてないでどうする」

「健人、コーチはな、お前のことを思って言うとる。社会に出ても同じや。遅刻する人間は、どんだけ頑張っても、まず遅刻で評価される。それでええんか。お前、損するぞ。コーチはお前に損してほしくないから言うてるんや」

新田は一度も声を上げなかった。一度も言い間違えなかった。まるで朝礼の訓話みたいに、正しい言葉が整列している。だから何も言い返せない。

「すみません……」

新田は頷かない。頷かないまま、もう一つ足した。

「お前ならできるはずや。だから言うてる」

健人は口をきゅっと閉じた。
「お前ならできるはず」そう言われると、できなかった時の自分の顔ばっかり浮かぶ。

そのとき、土手の方から小さな声がした。

「……おはよう、ございます」

蒼真だった。手をポケットに入れたまま、肩を丸めて歩いてくる。顔色が白い。唇が薄く色を失っている。目線が揺れて、誰にも合わない。

蒼真は、サッカーがうまい。
足元の柔らかさが違う。蒼真がピッチでボールを持てば何かが起きる気がする。
でも、来ない。練習も試合もほとんど来ない。公式戦なんて、さらに来ない。
蒼真は、何でもない日の何でもないことで、急に来なくなる。

新田の姿勢が変わった。
背筋がほんの少しだけ緩んで、声からあの訓話の硬さが消えた。

「蒼真……来れたんか」

それだけだった。
さっきまで並べていた正しい言葉が、全部どこかへ行った。腰を少し落として、蒼真の目線に合わせる。その目つきが、健人には病室の子どもを見るみたいに見えた。

健人の中で、何かが外れた。
俺には、あんなに怖かったのに。
あいつには優しい。

「なんで」

言ってから、健人の目が泳いだ。みんなの顔が一斉にこっちを向いている。飲み込もうとしたけど、声はもう新田に届いていた。

新田が振り向く。
黙れば終わる。謝れば済む。それは分かっていた。
でも、喉の奥から次の言葉がせり上がってきて、健人はそれを止めなかった。

「俺、休んでない。五分遅れた俺は怒られて、たまにしか来んあいつは……」

そこで止まった。「褒められる」と言ってしまうと、自分がもっと惨めになる気がした。

新田は眉ひとつ動かさなかった。そして、また丁寧に喋り始めた。

「健人。蒼真は、来るのが難しいんや。事情がある。お前とは違う。俺も好き嫌いで差をつけとるわけやない。でもな、チームっちゅうのは、それぞれの状況に合わせて動くもんや。社会に出たらな、もっとこういうことある。今のうちに慣れとけ」

健人は新田から目線を外して、小さく息を吐いた。
また、社会。また、お前のため。
社会って何やねん。授業の科目やろ、よく分からん。分からんまま叱られてる感じが、いちばん気持ち悪い。
コーチに言い返しても無駄や。いつもこっちが間違ってたことにされる。それは知ってる。知ってて、口が動いた。

「事情って何」

困らせてやろう、そんな気持ちが声を尖らせた。

「人にはそれぞれ課題があるんや」

新田はそれだけ言って、背筋を伸ばし直した。話は終わった、という姿勢だった。

蒼真は、リュックを足元に置き直して、聞こえていないフリをしているように見えた。

新田は蒼真に振り向くと、また背中が丸くなった。

「今日は無理せんでええ。来れただけで十分や」

健人は唇を噛んだ。
俺には十分なんて、一度も言わなかった。

新田は、健人に向き直った。姿勢が戻る。声が戻る。

「遅刻はベンチスタートにする。チームの規律や。ただな健人、腐るなよ。こういうときにどう振る舞うかで、人間の器が見える。コーチはちゃんと見てるからな」

見てる。
見てるなら、毎日来てる俺のことも、見えてたはずやろ。

「蒼真は?」

口が勝手に動いた。

「蒼真は出す。必要やからや」

後ろの方で、誰かが小さく「えぇ……」と漏らした。チームメイトの目が、健人と蒼真を交互に見ている。誰も口には出さない。でも空気が言っていた。

「必要……」

健人の声が小さくなった。自分が必要じゃないみたいに聞こえた。

新田は蒼真の肩に手を置いた。置き方が丁寧で、余計に腹が立った。蒼真はびくっとしたけど、逃げなかった。

「蒼真、今日は前半だけでええ。しんどかったらすぐ言え」

健人の胸に、冷たいものが落ちた。
「しんどかったらすぐ言え」は、健人に一度も向けられたことがない。

試合が始まった。
健人はベンチに座った。いつもより板が硬く感じた。

蒼真がピッチに立つと、みんなの空気が変わった。ボールが蒼真に入るたび、観客の父親たちが声を出す。

「うまいな、あの子」

健人は、膝の上の手を見た。固く握られていた。

前半の途中、蒼真が顔をしかめた。胸を押さえて、新田に何かを言った。
新田はすぐに交代を告げた。

「蒼真、よう頑張った」

蒼真は頷いた。勝った顔でも負けた顔でもなかった。ただ、無事に戻ってきた人の顔だった。

健人の隣に座ると、蒼真は小さく言った。

「……ごめん」

健人は返事ができなかった。蒼真に怒る理由が、どこにもないからだ。

蒼真の腕が、すぐ近くにあった。半袖の袖口から覗く肌が白い。
健人は自分の腕を見た。日に焼けて、すり傷の痕がいくつもある。毎日来て、毎日転んで、こうなった。それが急に、何の意味もない模様に見えた。

新田が叫んだ。

「健人、準備しろ!後半、行くぞ!」

健人は立った。
身体が軽くなる気がしなかった。走れば走るほど、何かを埋めようとしているのに、埋まらない穴だけが見える。

ピッチに入った瞬間、思った。

頑張って損した、バカみたいだ。

ボールが来る。トラップを少し弾いた。相手が奪う。味方が取り返す。
その繰り返しの中で、「必要やからや」この言葉だけが、健人の頭から消えなかった。

試合は負けた。
新田は「切り替えろ」と言った。蒼真は「すみません」と言った。
健人は何も言わなかった。

帰り支度の中で、新田が近づいた。
肩に手を置かれた。重くはない。でも、丁寧だった。新田はいつも丁寧だ。

「健人。お前みたいにちゃんと来れる子がおるから、チームが成り立つんや。コーチは分かっとる。自信持てよ」

言葉は整っていた。いつも通り、正しかった。
でも必要だとは言われなかった。胸の奥が重くなった。

俺はいらんのに毎日、毎日、頑張ってたんかな。

土手の上では、霧が晴れていた。空が青い。
眩しいのに、気持ちは暗いままだった。

誰も見ない場所で、健人は小さく息を吐いた。

腑に落ちないまま、息だけが白く消えた。

↓ブログランキングに参加しています。このボタンで応援をお願いしますm(__)m
にほんブログ村 サッカーブログ 少年サッカーへ
小説
シェアする
dokuをフォローする